大和国司興福寺考
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概要
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大和国の吏務、つまり知行権が承保二年(一〇七五)に興福寺に付けられたとある興福寺側の記録をめぐって研究が進められているが、本稿では何故に大和国の知行権が興福寺に付けられることになったかについて考察してみた。後三条天皇即位以来、上流貴族摂関家の全盛期は終り、摂関家の政権は、受領層中心の中・下流貴族層を基盤とした後三条・白河親政権のもとに在ることを余儀なくされて承保期にいたったものと考えられる。こうした朝廷の動向のなかで摂関家が故国と考えていた大和国を同家のもとに確保してゆく政策として、関白師実は、摂関家の子息を興福寺に入れ(貴種)、彼等をして大和国知行権を行使させようと考えたものとみなされる。以下にその経緯について述べてみたい。
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