沖縄の「切り捨て」・「切り離し」と米軍政府占領下の沖縄
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概要
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昭和天皇は、第二次大戦の最中に「一度」、第二次大戦の敗戦後に「一度」、合計「二度」も沖縄を「切り捨て」る。一度目の切り捨ては、天皇の決断によって沖縄戦を回避することができたのにそれをしなかったこと、二度目の切り捨ては、日本を共産圏から防御してもらう見返りに沖縄をアメリカに売り渡したこと、加えて沖縄を日本から分離することによって戦後日本経済の復興をはかること、これである。さらにいえば、一度目の切り捨ては、日本帝国の最高責任者としての立場からの切り捨て、二度目の切り捨ては、国事行為のみをおこなうという天皇の地位を逸脱して、つまりは憲法を犯しての切り捨て、ということになる。昭和天皇による「二度」の「切り捨て」は、沖縄にとって限りなく深く、そして重い。米軍は、沖縄の上陸後、米軍政府を樹立し、占領と統治を同時に進める。この時のアメリカ本国政府内部における沖縄の政策をみれば、未だ明確な政策意図をもっておらず、いわば無関心の姿勢さえ示していた。だが、沖縄を占領した米軍政府は、みずからの沖縄における政策をスムーズに展開するためには、沖縄の人材を必要とし、誕生したのが沖縄諮詢会、次いで沖縄民政府であった。これらの行政機関は、あくまで米軍政府の補助機関としての役割であり、米軍政府内の制約内でしか動くことが許されなかった。アメリカ本国政府が沖縄の基地化に消極的であったのは、沖縄を常襲する「台風」にあったことも忘れてはならない。相次ぐ台風の襲来は、沖縄戦の最中・沖縄戦終結後に設営された米軍施設をことごとく破壊した。はじめて沖縄の台風を経験した米軍の高官は、沖縄からの兵士の撤退を決定し、その手続きさえおこなっている。そこで問題となるのが、アメリカ本国政府が沖縄に恒久的な基地を建設するか否かにあった。というのは、1945年度時点におけるアメリカ本国政府の財政構造をみれば、歳出に占める軍事費の割合は、すでに90パーセントを占めていたからである。沖縄の日本からの「切り離し」は、日本政府とアメリカ本国政府との間での取り決めでなされたものとなっている。その経緯を詳細にみるなら、あきらかに昭和天皇の「意思」が大きく入り込んでいることを見逃してはならない。住民にとっての最大の願いは、生まれ・育った「郷里」に帰り、そこでの生活を「生きながらえた家族」とともに、過ごすことにあった。だが、「戦後」のない沖縄は苦難の生活が続く。
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