身体論のためのメモランダ
スポンサーリンク
概要
- 論文の詳細を見る
現代哲学、倫理学において、いまなぜ身体が改めて問題とされねばならないのだろうか。ひとつの理由として、西欧近代哲学が、能動的意志を中核とする、意識哲学をメインに展開されてきたことが考えられる。意識の規定に際し、初めからその能動的側面にのみ定位し、身体とは本質的に独立の精神的主体としてそれを設定してきたために(視覚モデル、主客二元分離図式)、そもそも能動-受動関係の成立自体も含め、意識の経験それ自体が生起する場である「身体」という起源の現象系を、正規に捉えられてこなかったという事情がそこにはある1。一方、「触れる=触れられる」「見る=見られる」等、能動と受動とが渾然一体で不可分である身体現象の実相は、近代であっても ―― 哲学プロパーでは現象学的に、自分で自分の掌を握り合う例などを通じて ―― 繰り返し指摘されてきただけでなく、現代の生命倫理学をはじめとする種々の臨床現場でも日常不断に再確認されてきている。とりもなおさずそれは、現代哲学に、なお、身体把握における認識論的な図式の再検討の必要 ―― 即ち、独立自在の意識が対象的実体的身体を意志的に統御するとする「意志的主体-客体的身体」図式の再検討の必要 ―― を迫る意味を持つだけでなく、翻ってまた、近代身体論が依拠してきた、原子論的・力学的世界観図式の見直しの必要までを要求するものであり、のみならず、近代社会全体が倫理的な根本図式としてきた帰責図式 ―― 行為の責任を個人の意志に因果論的に帰着可能とする ―― の再検討をも求めるものである。本稿は、意識上の主体的意志によって身体的行為が発動されるという近代行為論図式の批判的検討を基に、現代倫理学において身体の問題を取り上げる際に踏まえるべき認識論的前提の再検討 ―― とりわけ身体論と密接なかかわりのある意識論の再検討 ―― を行い、それを踏まえて今一度、認識論的図式の制約のために見落とされてきた身体的諸感覚の事実の確認に立ち返って、現代哲学・倫理学における身体論の今日的位置を見定める一助となることを目指す。
- 2009-02-28