Sinvaudjanから見た牡丹社事件 上 (従Sinvaudjan看牡丹社事件)
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概要
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Sinvaudjan(新保将)は牡丹村のパイワン族の原名である。牡丹社事件時には、Sinvaudjanは牡丹社・牡丹中社・女仍社という三つの部落に分かれていた。歴史上1871~74年にかけて台湾南部恒春半島でおこった一連のできごと及び牡丹と高士仏両社と日本軍との戦闘過程を牡丹社事件という。文献資料は日本語と中国語文献が主要なものであり、かつ牡丹社事件を牡丹社あるいは高士仏社の観点から論述されたものはない。文献研究と聞き取り調査によって、総体として整理比較研究を行い、Sinvaudjanから観た牡丹社事件の見解と結論を提起する。当時の社会環境と先住民の風俗習慣から看た場合、わけもなく部落の領地に進入してきた見知らぬ人は侵入者と見なされ、必ず部落法の制裁を受けることになっていた。遭難その後部落の領地に誤って入ってしまった琉球人は人数が多かったために部落の防衛を圧迫し、ついには族人との間に口論誤解が生まれ、ついには残念な事態を生み出した。この悲劇的なことは確かに人に遺憾と思わせるとは言うものの、現代的な観点で当時の行為を断罪すべきではない。石門の戦闘で日本軍に対して奮勇抵抗したSinvaudjanは頭目Aruqu父子を失い、山中に入って遊撃戦を行った。日本側はくりかえし潘文杰に調停工作を頼み、引き継いで部落の指導者と日本軍が協議の結果、戦闘が終了した。日本は牡丹社事件を口実に兵をおこし、台湾を攻めた。単に琉球の代わりに正義によって敵討ちをするというわけではなかった。また、原住民との全面衝突も希望していなかったが、牡丹社と高士仏社の断固とした抵抗で戦争となったのである。日本のほんとうの目的は台湾を知り、さらに台湾を侵略し台湾を領有することにあった。牡丹社事件は日本軍が台湾を侵略する口実の一つに過ぎなかった。Sinvaudjanの祖先はかって郷里を守り、勇敢に敵を防いだ、これは原住民の名誉である。牡丹社事件は台湾歴史上重要なキーポイントであり、台湾近代史の発展に深い影響を与えている。
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