1935年前後における北方教育運動の一断面 - 吉田農の一論稿から -
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概要
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大正・昭和戦前期岩手,稗貫・和賀地帯の綴方教師群像をその自らの足で追求した記録,伊藤喜助の著『教師の群像』(1983年)に「序文」を寄せた吉田六太郎は,戦前岩手の生活綴方教師・吉田農あつし(1908 ~1961)について次のように書いている。「じつは,吉田農は,戦後の岩手民教研の育ての親,岩手の教育実践の源流に位置する一人である。いわば吉田農は,わたしたちの教育実践のささえであり,まさに北天の巨星なのである。若い教師たちは,ひとたび農に接すると,勇気を吹きかえすといわれた。農の人間的な魅力,そのしたたかな実践力は,堂々と現代に通用したのである。だからだろう,逝くなった日,あの嗚咽と慟哭にみちた葬礼の思いは,いまもわたしたちには鮮烈である。」岩手の民主教育実践の源流,「北天の巨星」と形容され,「わたしたちの教育実践のささえ」と思慕されていた吉田農とは,どういう教師であったか。彼は1935(昭和10)年前後の時代,「北方」に生きる岩手の一人の教師として,その自らも実践する「生活教育」に何を託し,北方教育運動に何を願っていたのか。 吉田農は1908(明治41)年に胆沢郡水沢町に生まれる。1928(昭和3)年岩手県師範学校を卒業。稗貫郡湯本尋常高等小学校を経て和賀郡黒沢尻尋常高等小学校訓導。この黒沢尻校在職時,1930(昭和5)年11月のいわゆる「岩手共人会事件」に関連の廉で検挙され,翌1931(昭和6)年3月より和賀郡横川目校綱取分教場へ転出(のち,本校訓導)。1936(昭和11)年3月水澤尋常高等小学校に転出。1940(昭和15)年12月,検挙される(いわゆる生活綴方運動事件)。吉田農はこの横川目校(分教場,本校)の頃に集中的に,独自の「短い綴方」の生活教育実践を行い,稗貫・和賀(稗和)の綴方研究同人運動を実質的に先導していた。 吉田農という人物,その教師像や教育実践等については,上記の伊藤喜助『教師の群像』,そして藤沢靖の一連の論考「生活綴方教師・吉田農(遺稿)」(『民主盛岡文学』連載)など,貴重な一群の仕事があり,既に一定の厚い研究・論及の積み重ねがある⑸。だが,残念ながらそれらの諸研究の中において,未だ触れられていない吉田農の論稿がある。その一端が,本稿で取り上げ検討する吉田農の雑誌論稿である。今更に筆者などそこに何程かを述べ加え得る術を持たぬが,ここではその未検討(検討未着手の)論稿のうちの一つを取り上げ,1935(昭和10)年前後における東北・岩手での北方教育運動の展開,その実像の一側面を探るとともに,伊藤,藤沢らの仕事を補う一断片,その別の角度からの僅かな一補論としたい。
- 2009-03-31
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