少年期の徳富蘇峰とアメリカ ― 1863年〜1880年 ―
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概要
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論説徳富蘇峰(1863〜1957)は近代日本を代表するジャーナリスト、歴史家として知られている。明治中期から昭和戦後の六十年以上にわたって、蘇峰は日米関係やアメリカ外交につき言論を展開し続けた。日露戦争終了時までアメリカに強い好意を示したかれは、戦争後、とくにカリフォルニアの日本移民排斥運動に反発してアメリカへの嫌悪感を深め、日米戦争中は米英撃滅を主唱した。 そうした活躍期の蘇峰を知るためには、その人生の原点に立ち返る必要がある。壮年、老年期の心の原型は青少年期に作られよう。若き日の蘇峰はアメリカについてどのようなことを学び、いかなる感情を抱いたのか。この「アメリカ」と出会った原体験を知らずして、後年の言動を解明することはできない。蘇峰は文久3年(1863)、肥後国で生まれ、水俣ついで熊本市郊外の大江村で成長した。いくつかの私塾に入って漢学を習い、家庭においては日本の史書を愛読した後、明治8年(1875)に熊本洋学校に入学する。アメリカ人教師リロイ・L・ジェーンズと出会い、はじめてアメリカ風の教育を受けた蘇峰は、さらに9年から13年にかけての約三年半余り、同志社英学校で新島襄や、ドワイト・W・ラーネッド、ジェローム・D・デイヴィス等のアメリカ人教師、宣教師から学ぶことにより、アメリカという未知なる世界に心を開いていった。すなわち、現代でいうと小学生の年齢で漢籍や和本を通じて江戸期の伝統的教養を吸収し、中学から高校生の年齢で熊本洋学校、同志社英学校に入り、和漢の学問の上にアメリカの洋学を接木する形で採り入れたのである。このように伝統と洋学が接触する中で、蘇峰の眼前に現れたアメリカはどのようなものだったのだろうか。本稿の発表に先立ち、筆者は熊本・大江義塾時代(明治13年秋〜19年末)における青年期蘇峰のアメリカ観を検討した。この時期の蘇峰は西洋列強とくにロシア、イギリスのアジア進出に危機感を覚え、日本の独立と近代化を念願したが、その際、アメリカは高貴な独立の精神にもとづいて建国され、自由民権をベースに商業立国を実現した日本のモデルとしてイメージされた。このようなアメリカ像は熊本・大江義塾時代に突然表れたというよりも、その前段階の時期より形成され始めていたのではないか。そこで本稿では第一に、生誕から少年期に至る蘇峰のアメリカ像形成の発芽を探ってみたい。ただし同志社時代の蘇峰の文章には断片的なものが多い上に、同志社以前については文章自体がほとんど残されていない状況である。そこで蘇峰の書き残したものだけでなく、かれが読んだ教科書や新聞記事にまで考察を広げ、その中で展開されるアメリカ像を検証し、蘇峰をとりまくアメリカ的世界を明らかにした上で、熊本・大江義塾時代の蘇峰が示した対米イメージとの関連性を探ってみたい。熊本洋学校、同志社英学校時代の蘇峰については、すでにいくつかの優れた研究が発表されている。しかしながら、若き蘇峰とアメリカの関係に焦点をあてた論考は管見の及ぶ限り、ほとんど見当たらない。その中で杉井六郎氏の『徳富蘇峰の研究』は蘇峰におけるキリスト教受容の問題を深く洞察し、それと関連してアメリカの有名な牧師、説教家であったヘンリー・W・ビーチャーの著述から蘇峰が感化を受けた点を指摘している。ただし杉井氏は影響の具体的内容にまでは踏み込んでいない。そこで本稿では第二に、この杉井氏の提起した問題を検討し、新たに判明した点を加えてみたい。
- 2003-03-20
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