ガンゲーシャのtatparya論に関する一考察
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概要
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ミーマーンサー学派の文意認識理論では,文は,その構成要素が期待(akanksa),近接(sannidhi),適合性(yogyata)という3要素を有してはじめて聞き手に文意認識をもたらすとされる.一方,後代の新ニヤーヤ学派の一派は,文意認識の成立には,これら3要素に<話し手の意図(tatparya)>を加えた4要素を聞き手が認識する必要があるとする.この4要素説の支持者のひとりとしてガンゲーシャの名が挙げられることがあるが,その根拠は充分に検討されていない.本稿はガングーシャの言語理論におけるtatparyaの位置づけを検討するひとつの手がかりとして,Tattvacintamani(TC)第4巻のTatparyavada章をいかなる文脈において解釈すべきかという問題を論じる.同章の内容を精査すると,Nyayakusumanjali(NKus)におけるウダヤナのtatparya論との強い類似性を確認できる.すなわち,ガングゲーシャの議論にはNKusの議論の借用と考えられる箇所が多く見られ,またtatparya論の結論によってヴェーダが作者を有することを論証するという点もNKusの議論と一致している.この類似性はTatacharya氏によって既に指摘されているが,本稿ではそれを文献に基づいて裏付けると共に,ガンゲーシャがウダヤナと異なる結論を採用していることを指摘し,またその差異は両者の見解の本質的な相違を意味するものではないと論じた.TCのTatparyavada章は文意認識成立に関する上述の3要素を検討する章の直後に置かれているが,上記の類似性に着目すれば,同章を文意認識理論の文脈においてではなく,或いは文意認識理論の文脈に加え,NKusのtatparya論と同様,聖典論の文脈において理解することも正当性を持ってくるだろう.ただし,ガンゲーシャの理論体系におけるtatparyaの位置付けを明らかにするには,彼がtatparyaを体系的に論じるもうひとつの箇所,TC第4巻Sabdapramanya章の記述を併せて検討する必要がある.この箇所にはTCの他の論述と矛盾する点が見られ,より緻密な分析が求められるため,この検討は今後の課題とした.
- 2011-03-25