The Wings of the Doveにおける"merciful indirection"
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概要
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多くの批評はHenry JamesのThe Wings of the DoveのMillyのpresentationに不満を唱えている。PelhamはDensherと瀕死のMillyの面会が事後報告で済まされるのは誤魔化しであるという。Leavisも'indirection'が遠巻きにしているのは空疎な中味だという。BewleyはJamesはMillyを把握していないのを陰蔽するために彼女を思わせぶりな脊景の中に置いたり誰にも分り切った象徴で飾るのだという。WilsonもKateとDensherの最後の場面での'messengering'を'increasing incapacity for dealing directly with scenes of emotion'に帰する。これらの意見は、Millyは存在するだけだという不満である。成程、頁数は大部分KateやDensherに割かれ、Millyは残りの頁にただいるように見える。Wegelinの言を借りれば"Kate acts, Milly is...."(イタリクス-筆者)なのである。しかしJamesの序文によればこのようなMillyのpresentationは「方法」なのである: "...it resorts for relief, this process, wherever it can, to some kinder, some merciful indirection." (p.xxx)しかし何故Jamesは'indirection'によってMillyを単に「在る」ものとして示したのか。'is'は実際何か積極的な機能を果していないのか。これらの問題を私は以下に主題と関連させて考えてみたい。この作品のplotは「DensherをめぐるMillyとKateとの対決」であるが、DensherはKateを離れMillyに振り向くのであるから、それは「MillyによるKateの超剋」となる。このplotから主題を引き出すと、「アメリカのinnocenceによるヨーロッパのknowledgeの超克」、「heartによるintellcctの超剋」、「divine orderによるnatural orderの超剋」となる。しかし私はMillyの本質を'being'、 Kateのそれを'seeing'と見る立場から、主題を「beingによるseeingの超剋」と考えたい。この見方は作品の主題と'indirection'の方法とを一層緊密に結びつけると思われるからである。そして小論の目的も主題と方法を接近させることにある。
- 財団法人日本英文学会の論文
- 1965-03-30
財団法人日本英文学会 | 論文
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