「極彩色」の成立とその展開の研究
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概要
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我々は日常会話の中でごく普通に極彩色ということばを使用し,その意味をわざわざ辞典に頼らずとも感覚的に理解している部分を有する.日光東照宮(以下東照宮と記す)や横浜中華街の関帝廟を見たとき,条件反射のように口をついて出てくるのが極彩色ということばである.文献上での「極彩色」の初出は1582年と考えられるが,現在「極彩色」と称される唐招提寺金堂や平等院鳳凰堂の彩色は,8世紀から11世紀にかけてのものである.仏堂内を彩色で荘厳するのは法隆寺金堂(7世紀)が最初で,主に暈繝彩色によるものであった.その暈繝彩色の彩色規範として説かれたのが『二中歴』(鎌倉時代)にある「紺丹緑紫」である.また,桃山時代以降「極彩色」と「金彩」が同義語で使用される場合も見受けられる.したがって,極彩色,暈繝彩色,紺丹緑紫と金彩の相互関係が明らかになれば,「極彩色」の解明が可能となろう.江戸時代初期の東照宮造営に関する文献と,それを基にした『国宝東照宮陽明門・同左右袖塀修理工事報告書』(1974)に記述された「極彩色」の分析から,東照宮における「極彩色」の意味が7つであることを検証した.その結果,当時の「極彩色」は,現代の一般的な「極彩色」とは異なる意味をもつことがわかった.当初は建築物の彩色であったと考えられる「極彩色」は,東照宮に限り木彫彩色に顕著である.それは徳川幕府の権力誇示のために求められた彩色であり,狩野派の絵師たちによって生み出された.
- 2009-03-01
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