バルトリハリの<現在行為>論
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概要
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パタンジャリがMahabhasya on P3.2.123において引用しているSlokavarttikaによれば,「彼は今行きつつある」(gacchati)などの現在時制定動詞形の意味は考察することなく受け入れられるべきものである.一端考察の対象となれば,それの意味である<現在行為>(vartamanakriya)の成立に種々の問題が生じ,結果そのような定動詞形の使用を説明することが困難となる.バルトリハリはVP3.9.85-90において現実世界(vastvartha)と意味の世界(sabdartha)を峻別するパーニニ文法学派の伝統的な世界観に基づきながら,その問題について議論している.彼によれば,<現在行為>が現実世界の事象とみなされるとき,以下の問題が起こる.1)<行為>は有すなわち過去に属するものか,非有すなわち未来に属するものかどちらかである.有でもなく非有でもないという第三の可能性はないから,現在に属する<行為>は存在しない(VP3.9.85).2)単一な<行為>はそれが有であれ非有であれ区分されないものであるから<行為>の本質として理解される順序や実現されるべきものという相(nivrttirupa)を持つことはできない(VP3.9.86).3)<行為>は多数の部分的<行為>の集合体(samuha)とみなされるが,人々は知覚によっても,知覚に基づく想起によっても多数の部分的<行為>を同時に認識することはできない(VP3.9.87).4)多数の部分的<行為>の内あるものは有であり,他のものは非有であるから,もし多数の部分的<行為>が単一な<行為>であるとすれば,単一な<行為>は有でありかつ非有であるものになってしまう.また,単一な<行為>は多数の部分的<行為>全体に随伴する普遍であるとしても,その場合には一つ一つの部分的<行為>は<行為>ではなくなってしまう(VP3.9.88).一方,<現在行為>が意味の世界の事象とみなされるとき上記の問題点は解決される.彼によれば,多数の部分的<行為>が志向する結果の同一性に基づいて概念的に構想された単一な集合体はそれが結果を実現しようとするものとして認識されるそのとき,<現在行為>とみなされる(VP3.9.89).或は,単一な集合体としての<行為>を認識する知が現在に属するものであることに基づいて<行為>は現在に属するものとみなされる(VP3.9.90).この議論を通じて彼が意図していること,それは現実世界の事象としての<現在行為>は存在せず,人々は概念構想としての<行為>と概念構想としての現在時性に基づいて日常生活において現在時制定動詞形を使用しているということである.従って,我々は上記のSlokavarttika意図を次のように理解することができる.「我々は<現在行為>を現実世界の事象ではなく意味の世界の事象として受け入れた上で,'gacchati'などの現在時制定動詞形を使用すべきである」
- 日本印度学仏教学会の論文
- 2009-03-25