フュルベールとオディロン
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概要
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シヤルトル司教フュルベール(在位1006-28年) の出身地については諸説があるがマピヨンが提唱したイタリア出身説(とくにローマ近郊出身説)が長いあいだ一般に受け入れられてきた。しかし 1970年代になってF・ベアレンズが諸史料の綿密な考証に立って北フランス出身説を唱えて以来、これが旧説に取って代わりつつある。ド イツの定評ある『神学および教会辞典』第三版(1995年)の<<Fulbert v. Chartres>>の項目を執筆したA・ベッカーはフュルベールは多分北フランスの出身であると言い、第二版(一九六O年)の執筆者J-R・ガイゼルマンのローマ近郊出身説を訂正した。フュルベールの生年も定かでないが、恐らく970年頃(ベアレンズ=ベッカー説) であろう。 したがって享年60歳前後ということになる。フュルベールが平民の出 身であったことは、彼がおのれ自身について語っている自作の詩から明らかである。自分が司教職に就いたのは「富や血統によるものではなく」「貧しい下層民から取り立てられた」と述べているし、自身は「貧しい 両親から生まれた」とも語っている。青年時代にランスでジェルベールの下で学んだのち、医学を修めるためにシャルトルに行った。まもなくここで教えはじめ、やがて司教座付属学校々長(scholasticus,magisterscholae) に就任した。1004年頃、助祭に叙階されて司教座聖堂参事会員になった。ベアレンズによれば、フュルベールの最も重要な直接的影響は、その著作よりもむしろ教育活動を通じて多くのすぐれた弟子を養成した点にあったという。門下生の一人にトゥールの著名な神学者 ベレンガリウスがいる。ミサにおける全質変化を否定して象徴説をとる彼は、聖体論争に火を付けた人物として有名である。師のフュルベール自身は新プラトン主義者であって、全質変化を認めるオーソドックスな 立場にたっている。シャルトル司教ラウルの没後、ロベール二世(敬虔王) の推薦により後継者に選出され1006年10月にサンス大司教レオテリクス(在位1000-32年)によって司教に叙階された。1028年4月10日に世を去るまでおよそ22年間フュルベールは司教の地位 にあり、11世紀前半のフランスの政治・教会上の諸問題に関与したのである。本稿の目的は、教皇改革が始まる直前の時代を知る上で最も重要な 史料の一つであるフュルベールの書簡集を手掛かりに、当代のフランス の聖俗界動向を一瞥し、良心的な司牧者であったフュルベールと改革修道制を代表する人物、クリュニー第5代修道院長オディロン(在位994-1048年)との関係に照明をあてることにある。
- 2009-02-15
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