Brian Friel:Translations : 言語表現と歴史認識及び民族的アイデンティティ(岸英司名誉教授追悼記念号)
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概要
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一般にいう歴史とは,言葉を補足すれば,歴史記述のことである。それは,人間社会における,過去から現在にわたる,現象としての事実・事件の単なる客観的呈示ではない。事実・事件への認識,即ち,或る種の,歴史認識と判断なくして歴史記述はあり得ない。このことは至極当然のことではあるが,その一方において,一般認知の既定の歴史記述というものは,偏向なき歴史認識による,個々の事実・事件の客観的・普遍的意義の一貫した統一的・正統的総括である,と何の疑念もなく認容されている傾向には少なからず問題が残る。歴史認識は万人に共通の単一なものではない。依拠する社会の事情と立場の異なりによって事実・事件の解釈・認識も異なる。広く通用している既定の歴史認識と歴史記述は,たといその妥当性が社会科学としていかに立証されようとも,あくまでも通念として許容されたものであることを知らねばならない。認識の依って立つ基盤を明確にした上での記述であれば,そのことは自ずから明らかであろう。有力で優勢な視点に立つ,一般認知の記述も,所詮は一記述にすぎず,絶対的正統性を有するものではない。然るに,往々にして無謬・不過誤の正統性が付与されがちである。こうなれば,歴史記述は流動性を排した硬化したものとならざるを得ない。そのような歴史記述の固定化は人間存在の柔軟なる思考・感情の硬化・停滞と連なり,人間営為の流動的,かつ,躍動的な展開を困難ならしめる。延いては,社会的・政治的に抑圧された個や民族のアイデンティティの確立にも大きな障害となる。社会科学としての歴史記述は,均等に比重をかけた複数視点に基づくことはできない。統一性保持のためにも一定の基本線を外れることはできない。でなければ,歴史観の分裂,時には,支離滅裂した歴史認識という,歴史記述にとっては決定的な否定的痛打を蒙ることになりかねない。この限りにおいて,最重要と目される視点を歴史記述の基本線に重点的に据えることは社会科学としては理の当然であるが,一面的認識という疑義・批判にさらされる余地を残すことにもなる。基本的な主要視点とは齟齬する複数視点への或る程度の考慮がなされても,社会科学としての歴史記述においてはそれらを肯定的に反映させることも,また,問題提起という形でのその投影のみで済ませることもできない。社会科学としての歴史記述には,よかれあしかれ,通念化が伴うものであり,一つには,それが歴史記述の特徴であり効用でもある。虚構,或いは,仮構の世界としてある文学作品においては,通念化された歴史記述の妥当性は必ずしも認められ得るとは限らない。むしろ,別種の,時には否定的な視点からそのような歴史記述に対処されることの方が多い。現象としての社会的事実・事件が文学作品において歴史的意味合いをこめて扱われる時,そこにはまず作家個人特有の歴史認識に基づくそれらの取捨選択があり,通念とは異なる独自の世界がそれによって構築されるのが通常である。既存の一面的歴史認識の固定化に対する疑義を,個的・独創的な単一の,或いは,複数の視点から問題提起するに留めることも,また,飛躍した自由な発想での歴史認識に基づいてそれへの批判を試み新たな認識への展望を示唆することも,ともに許容されるのが創作世界の特質であり利点である。抑圧と被抑圧の関係が長期にわたって錯綜した社会や文化圏のもとでは被抑圧的存在は個と民族のアイデンティティと歴史性の確認を殊更に意識化する必要が生じてくる。それが生存の意味を求めるための最大課題となるからである。それを中心に据えて作劇を試みているのが,現代アイルランドの代表的作家の一人,ブライアン・フリール(Brian Friel) (1929-)である。彼の作劇の主目的は,個や民族のアイデンティティの追究とともに,アイルランドにおける通念化した幾つかの歴史記述と歴史認識の再検討にある。
著者
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