ブリコラージュ : 言語における野性の思考
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概要
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ブリコラージュはフランス語で「素人仕事」などと訳されることばですが、人類学の世界でレヴィーストロースが「野生の思考」の中で専門用語として使っています。ブリコラージュは誤解を恐れずに言えば、近代科学に対する原始的科学、あるいは、科学に対する非科学、数学のような自然科学に対する文学のような人文科学、科学的分類に対する非科学的分類などと大いに関係を持っています。もっと単純化して言えばブリコラージュは「専門家ではない素人の(一見)単純な、素直な発想の仕方」と言えます。日本語や英語のことば使いを見る限り、このブリコラージュの発想法、或は、発想のレベルが専門家の発想法よりも大事なことがあります。以下にいくつか、その発想と関係がある例を挙げます。1-雷は上がらないで、「落ちる」。雷は実際には雲から発生した放電が地面に近づき、開けた平地では地面から2、3メートルの高さになったときに地面から上向きの放電が飛び出してくることが多いと言うことです。つまり、地表近くでは、雷は「落ちる」のではなく、「上がる」。しかし、「落雷」とは言っても「昇雷」などとは冗談でない限り言わない。このことから言えることは、言語は事実に基いているというよりは事実だと思っていることに基いていると考えるべきだということです。2-民間分類「雑草」などという分類の仕方は植物学の専門家が厳密な分類法に基いて、したものではないようです。そんな、項目は植物学の本には載っていません。。しかし、実際には「雑草」ということばはあるし、この項目は人々の生活の中で、有効な項目であると言えます。一般に科学的と言われる分類よりもこういった分類の仕方の方が、生活の役に立つこともあるし、直感に合っていることもあります。くじらはいわゆる科学的分類では魚の仲間ではないにも拘わらず、「さかな偏(へん)」を使っていることなどが思い起こされます。3-なぞなぞ (ア)「黒と白で、その上全体が赤いものなあに?」(イ)「かわけばかわくほどぬれるものなあに?」2つとも論理的に考えれば答えが見つかるはずがありません。しかし、論理的に考えてすぐ答えが見つかるようでは、なぞなぞとは言えません。又、なぞなぞというものを持ち出さなくとも、ことばの上で矛盾した使い方はいくらでも見つかります。例えば、「負けるが勝ち」、「甘い苦味」など。更に、諺(或はその類)どうしが矛盾することもよくあります。例えば、「渡る世間は鬼ばかり」と「渡る世間に鬼はなし」など。こういったことを考えあわせると、人間の認識の仕方や、それを反映していると考えられることばの使い方は理詰めで考えていくことは寧ろ、害になることがあります。
- 1999-03-31
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