『マンドラーゴラ』 : 現実と理想の分岐点としての
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概要
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序 マキアヴェッリは、その生涯に三つの喜劇作品『アンドリア』、『マンドラーゴラ』、そして『クリツィア』を書き残した。今、これら三喜劇を創作年代順に並列してみると、一つの素朴な疑問が生じてくる。便宜上、以下の二点に集約して問題点を整理してみることにする。まず第一に注目される点は、『アンドリア』と『クリツィア』の二作品は、何れもローマ古典劇の翻訳、あるいはその焼き直しに近いものであったのに対して、『マンドラーゴラ』がマキアヴェッリの独創による創作喜劇であったことにある。『マンドラーゴラ』の文体には、『アンドリア』翻訳を通じての、いわばマキアヴェッリの「喜劇」体験とでもいうべきものが検証され、翻訳『アンドリア』は、マキアヴェッリにおける喜劇創作に向けての前段階的な作品として把握することが可能である。しかしながら、『マンドラーゴラ』創作の数年後に執筆されたと考えられる『クリツィア』では、マキアヴェッリの喜劇創作に関する方法論が本質的に変化していることが確認される。もともとマキアヴェッリにとっては余技でしかなった劇作だからこそ、ここにおいて『マンドラーゴラ』の独創性は、より一層際立っている。確かにこれまでのイタリア文学史は、マキアヴェッリの喜劇における創造性を『マンドラーゴラ』の中にのみ見い出し、そこに近代への萌芽を発見してきた。『マンドラーゴラ』に関心の対象が集中するのは、作品自体の価値の観点から当然のことといえるが、それを決定的に方向づけたのはデ・サンクティスからクローチェへと受け継がれた『マンドラーゴラ』評価の歴史にほかならなかった。この伝統的な系譜において『マンドラーゴラ』は基本的に『君主論』と表裏一体の作品として位置づけられ、その視点は現在に至るまで拡大再生産されている。むしろ注目すべきは『クリツィア』において作家の創作意図が転換しているという事実(『アンドリア』への回帰)であって、ここに『マンドラーゴラ』という作品自体の、さらにはその執筆前後の作家の思想、生活に関する特異性を予見することができる。これを受けて第二に、それでは何故『マンドラーゴラ』においてマキアヴェッリの創造性が結実したのか、という問題提起を行なうことができる。この点に関わる問題解決の糸口は、『マンドラーゴラ』創作の経緯を再吟味する過程のなかで自ら言及されるはずである。そこで本稿では、16世紀イタリアの政治的および文化的状況の両者を背景として、『マンドラーゴラ』創作前後におけるマキアヴェッリの精神的状況に検討を加えていくことによって、その喜劇創作にいたる動機づけを明確化し、さらには作品解釈における一つの視座の獲得を試みたいと考えている。
- 1992-10-20
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