ルネサンス文芸論序説 : 『異教の神々の系譜』第14巻におけるボッカッチョの詩学
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概要
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7.『異教』全篇をみると古代の知の淵源に関する年代学に言及した箇所が多く見られる。ボッカッチョは何も「同郷人」(p.762)だからということではなくて、七自由学芸のなかでも数理系四科(quadrivium)に優れた人材を輩出してきたフィレンツェのよき伝統に連なる人物として、1367年2月27日に死去した幾何学者パオロことパオロ・デッラーバコないしパオロ・ディ・セル・ピ***・ダゴマーリ・ダ・プラートを挙げ、年代学に関する記述はすべて彼の著作に負っていることを明らかにしている。「算術や幾何や占星術といった学芸で、それらの奥義を究めた人物を当地では他に思い当たらない」(p.762)ばかりか、「彼の名声は生まれ故郷やイタリアに限られていたわけではなく、その学識は本国以上にパリで高く評価され、ブリタンニアやイスパーニアやその学芸がもっと重要視されていたアーフリカでも同じであった」(p.762)とまで賛辞を呈している。8.以上、ナポリ時代を中心として『異教』成立に係わるボッカッチョの知的人物交流を簡単に素描してみたが、では具体的に彼はどのような手順にしたがって『異教』を執筆したのであろうか。V.ロマーノによれば(pp.789-864)、『異教』の母体ともなるべきいわゆる「古代神話集成」(corpus mythologicum)編纂のこころみが具体化するのは、1350年以降のこととされる。ボッカッチョの名声を伝え聞いたキプロス王ルジニャーノのウーゴ4世は、パルマの人ドンニーノを派遣してボッカッチョに上記の著述を依頼したとされるからである(p.781)。それ以前の段階では、ボッカッチョはただ『テーセウス物語』や『フィアンメッタ奥方の哀歌』や『歴代名婦伝』執筆のための単なる資料として準備していたのだった。そのウーゴ4世が1358年11月24日に退位し、翌年の10月10日に死去するまでに約10年間に、このいわゆる「古代神話集成」の草稿は神々の系譜として整理がなされ、ラクタンティウス・プラチドゥスやフルゲンティウス・プランチ・アス、セルヴィウスやテオドンティウスなどに基づいて字義的および寓意的解釈が施されるとともに、出典が明記された著作の形をとるにいたる。1360年から3年間すでに述べたようにボッカッチョはレオンティウスをフィレンツェの自宅に迎えてホメーロスの訳読をおこなっているが、レオンティウスが去って後の1365年暮れから翌年の初め頃に、彼は手もとにあった「古代神話集成」の写しをもとに自筆写本(A)の草稿を作成した。また『異教』XV-13においてボッカッチョ自身が「ベッキーノも幾何学者パオロ[1367年2月19日〜27日死去]もともに存命中であった」(pp.781-782)と述べていることから明らかになるように、この著作の最後の2巻であるXIVおよびXVの草稿も1367年2月までにほぼ書き上げられ、いわゆる自筆写本(A)全体の形は1370年頃にはできあがっていたと考えられる。というのは1370年の暮れから翌年の初めにかけて、ボッカッチョはこの自筆写本(A)が欄外の書き込みや削除などのために読みづらくなったとして清書し直しているからである。ロマーノによって写本(Ax)と名付けられたこの清書原稿そのものは残念ながら今日まで伝存していないか、この転写の作業中にも彼は不必要な箇所を削除すするとともに、あらためて必要と判断した事項をどんどん加筆していったので、あらたに出来上がった写本(Ax)は、いうなれば『異教』の新しい版と言ってもよいものとなった。9.さて1371年の暮れから1372年の初めにかけてのこととされるが、友人ウーゴ・ダ・サン・サヴェリーノのたっての申し出でもあって、ボッカッチョは写本(Ax)をしぶしぶ彼に貸与したところ、この友人は約束に反して何部かの写しを作成したうえ、ボッカッチョに無断でそれをさらに彼の友人の法律家ピエトロ・ピッコロ・ダ・モンテフォルテに貸し与えたのだった。そこでピエトロは自分の判断で必要と思われる程度の朱を入れた写本(Ax)を、1373年3月の末にジョヴァンニ・ラティヌッチを介してボッカッチョに返却した。ほどなくしてボッカッチョはここでもう一度写本(A)を基に、「古代神話集成」の全面改訂の作業に着手したのであったが、この作業は1375年の突然の死によって中断され、ついに完成をみるにいたらなかった。こうしておよそ13年以上の歳月をかけてボッカッチョが絶えず改訂を試みた『異教』の原本写本(ms.Originale)は、彼所有の他の諸写本とともに、その死後遺言によって友人の告解師マルティーノ・ダ・シーニャの手に委ねられた後に、サント・スピリト修道院小文庫として保管されることとなった。一方、友人のウーゴが無断で作成した『異教』の写しは、ボッカッチョの意志に反して不完全なままの状態で、O.ヘッカーの命名になるいわゆる『異教』流布本として、当初は手写本のかたちで、やがては版本としてイタリア国内のみならずヨーロッパの他の地域でも出版され好評を博すこととなっ
- 1995-10-20
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