ヴェネツィア芸術の隆盛と土地所有
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概要
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16世紀ヴェネツィアにおいて、フィレンツェやローマに遅れて盛期ルネサンスが開花したことは周知のとおりである。この世紀の中頃には美術・自然科学・出版などの分野でヴェネツィアはヨーロッパ世界をリードしていたのであるが、17・18世紀になってもその文化は光を放ち続けた。いやむしろ、都市全体から見た文化的側面の重要性は増大したと言ってよい。何世紀にもわたって強力な商業国家として栄えたヴェネツィアは、16世紀にはまだその性格を色濃く残していたが、17世紀にはそれを失って文化国家としての印象を強めていくからである。17・18世紀を通じてもなおヴェネツィア商業が活発に行なわれていたことを強調する研究者もいるが、全ヨーロッパ経済に果たすヴェネツィアの役割が大幅に縮小したことは否めない。そして、東方の珍しい産物に代わって演劇やオペラなどの様々な娯楽がヨーロッパ中の人々をこの都市に引きつけるようになっていくのである。 商業国家から文化国家へのこの変貌は、千年余に及ぶヴェネツィア共和国の歴史の中でも最も大きな社会変化であったと言える。にもかかわらず、その原因を解明しようとする研究はごくわずかで、文化国家への変貌はただ商業衰退の後のヴェネツィアの栄光の残光として言及されることが多い。また、ヴェネツィア・ルネサンスの開花については、今世紀の経済史研究によって16世紀ヴェネツィア商工業の繁栄が証明される以前には商業不振の裏返しであるとされ、これが証明された現在では逆に、この繁栄がもたらした富の表れであると言われるようになった。つまり、従来のヴェネツィア史研究の中で、文化、とりわけ芸術に関する問題は、劇的な商業の盛衰に付随するものとして扱われるか、あるいは社会のコンテクストから幾分切り離した形で独自に論ぜられるかのどちらかだったのである。 本稿の目的は、この問題に光を当て、16・17世紀におけるヴェネツィア芸術の隆盛がどのような社会的状況の中で起こったかを明らかにしようとすることである。特に、芸術作品が産みだされるにはそれなりの費用が必要であることから、経済的な側面との関係が重視される。即ち、この時代にヴェネツィアで芸術が一斉に花開いたのは、多くのヴェネツィア人が芸術のパトロンとなり、芸術に多くの金を費やすようになったためであると考えられるのである。ここに、フィレンツェやローマにおけるルネッサンスの開花期とヴェネツィアのそれとの時間的なずれを解くひとつの手がかりも潜んでいるであろう。本稿ではなぜヴェネツィア人がこの時期に芸術への多額の出費を行なうようになったか、そしてその金はどこから得られたのかという疑問を中心に考察が進められる。 しかし、ここで商業の動向をその指標とすることはできない。なぜならば、商業が衰退するとき文化的活動が盛んになるにせよ、その反対にせよ、ヴェネツィア芸術の動きは商業の動きと必ずしも一致していないからである。確かに、絵画や建築物が盛んに作られた16世紀にヴェネツィア商工業は空前の規模で繁栄していた。しかし、それは世紀半ばから後期にかけてのことであり、世紀初めの30年間はポルトガルのケープルート貿易の影響でほとんど香料を輸入できず、この世紀に急成長する毛織物工業もまだ発展の初段階に入ったばかりで、景気は芳しくなかったのである。その一方、この不景気時にもジョルジーネやティツィアーノらは活発に活動している。また、東方貿易から得られる莫大な富は13世紀からヴェネツィアに溢れていたが、にもかかわらす文化に高い関心が寄せられていたとは言い難く、ヴェネツィアで生み出される芸術作品の数は15世紀半ばになって急に増え始めるのである。 そこで注目したいのは、15世紀以降ヴェネツィア人の間で土地を購入し地主化していく傾向があったという事実である。土地所有は、貿易や海運ほど研究者の関心を集めてはいないが、実際は、より社会の内面に関わり、また近世におけるヴェネツィア商業の衰退とも密接に絡み合う大きな問題であった。ゆえに、そこには芸術の隆盛との関連も見出される可能性が高い。そして、そうであるとすればまた、土地所有のあり方と芸術の質との間にも何らかの関係があるであろう。従って、絵画・建築が盛んであった16世紀と、演劇やオペラが盛んであった17世紀とに大きく時代を分け、この仮説を手がかりに前述の疑問を解明していきたい。
- 1990-10-20
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