リソルジメントにおける民衆運動 : 一八四八年ボローニャ
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概要
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一八四八年は「諸国民の春」と言われるように広汎な地域での革命運動の展開を見た年である。しかし、その革命運動の内実は諸地域のおかれていた社会・経済・政治的状況の多様性を反映して、民族的統一をめざす運動であったり、支配層内部での勢力の配置変えをめざすものであったり、社会体制の変革をめざすものであったり、というようにまさにさまざまであった。そして、総体として諸地域の革命は重層的に関連し合って、ウィーン体制という十九世紀の世界秩序を根底からゆるがす結果をもたらした。イタリアにおける一八四八年(そして四九年)革命和は、基本的には民族統一を最大の課題として闘われた。しかしながら、小邦に分裂していた当時のイタリアではヨーロッパの他の諸国以上に、国内の地域的差異は大きく、革命の経過も地域ごとに大きな偏差を示した。多様な革命運動が相互に連関をもら、事態が展開していったことをふまえ、この多様性を把握することが重要である。さらに、一八四八-四九年はリソルジメントの歴史の中で初めて民衆運動が全面的に革命に介入することで新しい局面を示した時期である。ミラノからシチリアまで、都市住民からラフィフォンドの農民までが、たとえ限定された空間的・時間的広がりの中であっても、能動的な参加を行なった点は重視すべきである。それ故に、四九年以降の統一戦略をめぐる議論の中で民衆運動をどのように位置づけるのか、という点がひとつの重要な論点となる。そこでは、民衆運動をどのような目標に対してどのように組織・指導して行くか、という問題が四八-九年の総括とからめて行なわれた。本稿ではボローニャの民衆運動を四八-九年革命のひとつの具体例としてとりあげる。その理由は、オーストリア軍との対決という形で民族的課題を追求しながら、固有の社会的要求が暴走めいた無秩序の中に噴出する、という点でイタリアの四八-九年の民衆運動に内在する矛盾を典型的にあらわしていると考えられるからである。
- 1984-03-15