アントニオ・ラブリオーラの《民衆学校》と社会主義
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概要
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一八八七年から一八九〇年にかけてはラブリオーラにとっては、知的・政治的(社会主義にむすびつく)形成の非常な苦悩にみちた、曲折は多いが多彩な時期であった。つまりイデオロギー的にはヘルバルトからマルクスヘと、政治的にはラディカリズムから社会主義へと進化をとげた時期であった。このことは、かれの、ローマ大学でも市民の間でも名声の高かった道徳哲学、教育学、と歴史哲学の二つの講座の状況、政治への公然の参加、公開書簡、講演など盛沢山あることからみても明らかである。表記の《民衆学校》とは、丁度この時期の一八八八年一月二二日にローマ大学の大講堂においてローマ教員協会(Societa degli inseganti romani)の求めに応じておこなったかれの講演に起源をもつものであった。教育論に関しては、かれは少くとも、論文《歴史教育》でも、たとえ部分的でも学校改革の計画についての体系的な理論づけを企て、かれの師スパヴェンタと共通の論題であった労働者に対する権利・義務の講義のなかにそのなんらかの実現の可能性をみていた。この《民衆学校》は、かれの欧州各国への教育制度の視察や博物館による実物教育の教育実績を通していわばその生きた経験の結果としてあらわれたものである。《民衆学校》についてかれがその意識をもつにいたったのは、就中欧州の教育制度の視察報告の結果に負うところが大であった。このなかで民衆の学校の発展は、民主主義の進歩に呼応していることを立証し、《民衆学校》の政治的観念を、そのプログラムや目的からみてブルジョワ的な伝統制度にむすびつかない新しい学校として明確にし、そして労働者大衆の必要やかれらの経済的政治的行動への参加の期待に応えんとするものであった。さらにラブリオーラは《民衆学校》と初等学校の間に区別を設けている、つまり前者は近代的労瀞者の準備に適した学校であるが、といってけっして職業的専門的な学校ではない、後者は読み書きの単純な単元の学校だが、民主的な闘いの段階ではうけいれるには余りにも制約があり貧弱だというのである。一八八八年の《民衆学校》は、かれの思想形成期にあって、必ずしも一体とはみられなかった文化的方向と政治的方向を一つにつなぐ接合の役割を果しているようにみえる。さきにも指摘したようにイデオロギー的にはマルクスヘと政治的にはラディカリズムから社会主義へと進化しつつある時期にあった。併せて重要なことは、かれが社会主義者として自らを確立する以前のラディカリズムとの関係である。つまり、かつてのかれのラディカリズムの隊列のなかの存在、ラディカルヘの態度は確定していたわけではないが、短くない期間にわたって目的地をさがし求め、暗中模索がつづけられていた。といってもそれ以前からかれのなかで培われてきたかれの文化についての観念は、この《民衆学校》のなかでは政治と教育学の融合の見通しの実現として再びあらわれていることに注目する必要があろう。それが冒頭にかかげた《わたくしは文化の名において語る、民衆学校はわたくしの真の理想である…》との発言となってあらわれたものと思われる。この稿では、かれの社会主義思想の形成期における、教育学史上注目すべき《民衆学校》がどのような歴史的社会的背景のもとで出来上り、この《民衆学校》が、かれの社会主義理論の形成にどんな役割を果したか、またどのように位置づけられるべきかについて、その核心部分を紹介しつつ考えてみることにしたい。
- 1982-03-20
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