デ・サンクティスの「神曲」批評
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概要
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一、デ・サンクティス美学と「神曲」の位置デ・サンクティスのダンテ研究は時代的に見て三つの時期に大別できるといわれている。第一の時期は一八四二〜三年のナポリ時代。当時プォーティの私塾に勤めていた彼は、ダンテ研究を通じて、当時強い影響下にあったヘーゲルの芸術理論からの自己解放を試みたと言われている。第二の時期は、一八五四〜五五年のトリーノ時代およびそれにつづくチューリッヒ時代、この期間に彼は一連の「神曲」講義を行い、それ以前の様々なダンテ批評に対する批判的態度を明らかにした。特に彼が批判を加えたのは、当時なお優勢であった註釈家的なアレゴリーア的ダンテ解釈であった。それと同時に、リソルジメント期の愛国心の昂揚にもとづく、歴史的ダンテ解釈の克服もまた、彼に負わされた課題であった。特に前者に対して、デ・サンクティスは全面的に批判し、その意義を否定した。その際最も有力な根拠となったものは、先にヘーゲルの影響下にあって近づいた哲学主義(フィロゾフィズモ)批評からの脱皮のためにあみ出した、芸術の自律性に対する確信であったと思われる。又この確信は、デ・サクティスが、それ以前にしばしば見られる歴史的ダンテ解釈に陥ることから、彼を救ったものと思われる。第三の時期は、一八六八〜七〇年におよび、フランチェスカ、ファーリナータ、ウゴリーノ伯等に関する評論、並びに文学史が書かれた時代であり、彼が亡命を終えてナポリに帰り咲いた後の最も多産な時代であった。ルイージ・ルッソによると、彼はダンテについて三巻からなる書物を書こうと希望していたのであるが、結局それは文学史の中のダンテに関する叙述となったと言われている。デ・サンクティはその文学史において、「神曲」について述べる前に、ダンテの学問的著作について述べた後、当時のイタリア文学には、二つの潮流が、ほとんど平行しながら、一貫して存続していたと述べている。「これら二世紀(註・千二百年代および千三百年代)にわたって我々は、互いに相接しながら、ほとんど平行して存続している二つの文学を持っている。一方は純粋に宗教的なもので………他方は読者を知りうるもの全てに導き、それを哲学的体系に帰納するもの……」前者は聖歌、賛美歌、頌歌、宗教劇、伝説などをその成果として持っており、後者は、大全、百科全書、論文、年代記、ソネット、カンツォーネなどを持っている。ノヴェッラやロマンヅォの類は両者の中間にあって、真に国民的基盤を持たないものと、デ・サンクティスは考える。なお彼によると、それら二つの文学潮流は、それぞれ異った基盤を持っている。すなわち前者は民衆をその支持者としており、後者は知識人を基盤としている。そして彼は、ダンテが神曲に着手する以前に、民衆文学につながるものとしては「新生」、知識人文学につながるものとしては「饗宴」を書き、これら二つの文学潮流の両者から影響を受けていたと考えている。ところが、デ・サンクティスは、これら二つの文学的潮流は、共に歴史的限界を有しており、それが明確な形に形成されればされるほど、それらの限界も明らかになっていったと考えている。「民衆的文学は、カテリーナの教理的で単調な手紙の内に終る。その生得的な欠点は、禁欲主義の持つ抽象性である。知識人の文学は、「饗宴」の煩瑣な議論の内に終る。その本質的な欠点は、学問の抽象性である。」すなわち両者は共に、抽象性astrazioneという欠点を有しており、抽象性もしくは現実性realtaの欠如という点にこそ、まさに本質的な中世文学の欠点があったとデ・サンクティスは考えるのだ。そして、ダンテがその「神曲」を創造する際に取り組まねばならなかった最大の問題もここにあったのだと彼は予想する。
- 1965-01-20
著者
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