『ダンテの方へ』 : 二人のフランス作家におけるダンテ
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概要
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I序「やっとのことでダンテは知られるようになった」とヴァンチ・ゲームが、その比較文学史『フランス文学への外国文学の影響(一五五〇年-一八八〇年)』において、デシャン訳(一八二五年)、ブリゾー訳(一八四〇年)、ラティボーヌ訳(一八五九-六〇年)等に言及するのは、ロマン派文学に及ぼした外国文学の諸影響の一挿話としてでしかないようだ。彼はこう続ける。「だが、この輝かしい名前は、やたらに引用されるにしては、作品の方は知られないままにおわっていた。おきまりの、いくつかの挿話が引用の対象であり、ダンテ自身は、そのまま、非妥協的かつ、荘厳、深刻な詩人の象徴となってしまった。うやうやしい胸像ではあるが、彼は同化された作家ではなかった。一人ヴィニーのみが、『***ア』、『詩篇』、『運命』において、形式上の比較はともかく、『神曲』の密度に匹敵しようと志したにすぎない。当時、深くまた永続的な影響を及ぼしたのは、ヴィコであり…………」ダンテのフランス文学界における運命は、すでにその翻訳が現われる(一五五五年)まえから、好んで読まれ、ペトラルキスムという言葉まで生み出された、ペトラルカの好運とは比較にならないのである。ヴァンチ・ゲームのいうところは、現在でもまず変らないといっても見当はずれにはなるまい。勿論中世以来、ダンテを愛好した作家は、何人もいたし、またダンテ的といえる作家もいたろう。例えば、サントーブーヴは『月曜閑談』で、パスカルこそダンテ的だといい、また『ポール・ロワイヤル僧院史』に好んでダンテの引用を試みているにしても、パスカル自身はダンテの存在すら知らなかった。あるいはまた、フランス的明晰の象徴ともいうべき、ヴォルテールは、「古人にならって、ダンテもまたあらゆることを表現し、彼はイタリヤ人をして、すべてを表白することに慣らし、……ダンテのあとにはペトラルカが、イタリア語に、今も失われてないあの優雅と優美を与えた(『アカデミ会員就任講演』)ことは認めるが、「もうヨーロッパでダンテが読まれないのは、すべてが、われわれの知らない事実への言及だからだ」(『哲学書蘭』)といって憚らないのである。フランスにおけるダンテ復興は、ロマン派時代をまたなければならなかった。だがそれも、ヴァンチ・ゲームの保留をつけての話である。したがって、一五七七年、ヤコポ・コルビネルリによる『俗語論』のパリにおける上木は例外にすぎぬ、といってもよさそうである。それ故また『十月の夜々』の一節-さようなら、さようなら、もう永遠にお別れだ、おまえは、それが徐々にせばまりゆき、ついにはルチフェロが最後の審判の日までつながれている、あの暗黒の井戸にいたる圏に、最後の閃光を投げかかえる、ダンテの金色のケルビムのようだ………このような自由な言及は、微視的に見れば、ネルヴァルといわず、この時代の作家にいくらでも見出すことが出来る筈である。ドラクロワ筆『カロンの舟』に、あるいはユゴー、ラマルチーヌの詩句にそしてヴィニーの『***ア』にと。ぼくは次の二つの章で、それぞれバルザックとジッドについて、やや詳しくふれる積りであるから、その釣合い上、ここに現在作家の一例を加えておこう。アルベール・カミュが『転落』(一九五六年)を構想した時、彼はダンテの地獄のイマージュをおぼろげに考慮に入れていたに違いない。<語り手=改悔せる裁判官>の告白を聞こう。舞台は運河の錯走するアムステルダムである-
- 1965-01-20
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