帝国大学体制下における公立大学理念の形成 : 佐多愛彦における大学論の展開を中心に
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概要
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本稿の目的は、1886年の帝国大学令-それはすべての大学は官立かつ総合大学でなければならないとした-の制定によって成立した帝国大学体制のもとで、府県等の地方公共団体によって設立される大学である公立大学に関する理念がどのように形成されたのか、それはいかなる内実を有していたのか、ということを明らかにすることにある。本稿は、大阪府立高等医学校の校長として昇格運動を主導し、1919年に同校をはじめての公立大学である大阪医科大学に昇格させた人物である佐多愛彦における大学論の展開に注目し、それが歴史的にいかなる意義をもつものであったのか、ということを検討することによって上記の目的にせまろうとしたものである。本稿の主な結論は、以下のとおりである。(1)1910年代において、政府は高等教育制度を改革するため、教育調査会および臨時教育会議を設置し、1918年に成立する官公私立大学を認める大学令の制定のための準備に入る。しかし、そこでなされた政策論議においては公立大学の理念を明確化するという課題に対してはほとんど関心が寄せられず、また公立大学の設置主体である地方公共団体を自治の主体ではなく、国家の地方行政区画としてのみ捉えるという限界があった。(2)かわりに先の課題に応えて公立大学理念を形成したのが佐多であった。(3)その理念は、公立大学は帝国大学と対峙し、都市ブルジョアジーによって設立されるものであり、財政的独立にもとづく「大学の独立」を前提とした学問の実際化と大学開放等の社会的活動によって、都市における文明の発展を中心的に担うべきものである、というものであった。(4)佐多もこの理念をはじめから有していたわけではなかった。彼は、1912年から翌年にかけて大学や病院についての研究を目的とした欧米視察を行い、ドイツのフランクフルト、ハンブルク、ドレスデンにおける新大学設立運動に関する知見をもとにその理念を作り上げたのである。それらの都市においては官立ではなく市立の大学を創設しようとしていたのであり、佐多はそこから深い印象を受けたのである。(5)佐多によって作り上げられたこの理念は、著名な大阪市長であり、その建学理念にもとづいて大阪商科大学を設立したことで知られている関一の大学論に影響を与えたと考えられる。(6)関が都市の自治を重視したのに対して、佐多は大学令制定過程における政策立案者たちと同様にそれを重視することはなかった。彼は都市の繁栄が無条件に国家の繁栄につながるものと考えたのである。この意味で佐多の大学論は帝国大学体制を根底から否定するものではなく、この課題は関に引き継がれたのである。
- 2000-06-30
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