モリエール I : スカパンの笑い
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概要
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「何たる! 何たる自然! 何たる諧謔の泉! 何たる性癖風俗の模倣! 何たる写生! 又何たる痴態の剔抉」・・・・・・慧眼な観察家ラ・ブリュイエールの的確なモリエール観である。但し、新旧論争では古典派に与したこのモラリストは、この直前にテレンシウスと並べ、苦言を呈している。「モリエールはただわけのわからぬ文句や粗野乱暴な言いまわしを避けてくれたら、即ち清醇な文を書いてくれさえしたら、よかった。」これに対して約三百年後、リセ・ヴォルテールのモリース・ブエ教授は、クラシック・ラルースの教科書版 (旧版)『モリエール滑稽選集』の序文で次の如く述べる。「ラ・フォンテーヌとともに、わが国の古典作家のなかで最も近づき易いモリエールが、何故中等教育と補充教育の初級クラスでごく自然な位置を占めているかを想起し、またモリエールを読むことが、如何に生徒たちの言葉を豊かにし、彼らの表現力を確立し、彼らの観察精神と思考力を強化し、ひいては彼らの心を形成することになるかを示す必要は殆どない。」この点に関して、ラ・ブルュイエールの判断は見事に外れたといえる。またブエ氏は笑劇の最も滑稽な場面さえも非教育的ではないとし、モリエール劇の様々な道化的場面を中心に、中等教育向けのテキストを編んでいるのである。これはモリエールという劇作家が、フランスでは如何に身近で親しまれているか、また「粗野乱暴」と批判された彼のことばが、如何にフランス語とフランス精神の形成に与っているかを示す事例のひとつであろう。ところで、これまで筆者は、拙稿『従僕論序説』で、モリエールを中心にした従僕像を検討してきたが、この大劇作家に対しては、いわば斜に構えたものでしかなかった。従僕役という覗穴、女中役という飾窓から、その舞台衣裳の一端に触れていただけのことである。本稿では、その飾窓から一歩踏込み、この Grands Ecrivains の一人に対峙してみようと思うが、もって生れた習性で、まともに大河を遡ることは他日に委ね、不取敢筆者にとって馴染んだ戸口から入ろうという次第である。今一度ラ・ブリュイエールの言を拝借しよう。「それがもう語られなくなってから数世紀の後に、果して人は、モリエールやラ・フォンテーヌを読むために、学徒となるであろうか?」モリエール死して三世紀後、それ (フランス語) がまだ語られているうちに、遅れてきた者がいたというわけである。
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