ミッション, 衛星試験探査機『さきがけ』
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概要
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我国の惑星間空間ミッションの第1号として, 1986年2月, 76年ぶりに太陽に最接近するハレー彗星を観測しようという計画が打出されたのは1978年であった。その為に新しいロケットを開発することを目的としてM-3SII計画が発足した。ロケットの概要が固まるに従って第1号ロケットで打上げられる試験衛星の性格に就いての議論がはじめられた。初めての惑星間空間ミッションであったにも拘らず, ロケットグループのなみなみならぬ意欲と観測グループの強い希望によって試験探査機という性格を持ってハレー彗星に向かうこととなったのである。ただし可能な打上げ時期と新しいロケット制御機器使用等の理由からハレー彗星最接近距離は100万粁程度とするという妥協は必要であった。この制限の下でどのような科学的成果を期待できるかということに就いて研究者の間で多くの議論がなされた。彗星は太陽風との間で大きな相互作用があることはよく知られたことであったが, この試験探査機に続いてハレー彗星探査機が打上げられることになっていたので, この二つの探査機による観測項目を一括して公募することにした。勿論第10号科学衛星はさらにハレー彗星に接近することは当然のことという条件であったのである。探査機重量140kg, うち観測装置重量15kgという厳しい制限にも拘らず多くの応募があった。約半年にわたる小委員会の検討の結果, 試験探査機は太陽風の観測を行うことに決定した。その頃COSPAR(Committee On Space Research)の中に設置されたAd hoc Committeeで字宙科学研究所の他に∃ーロッパではESA, ソ連ではIKIそれとアメリカではNASAがそれぞれハレー彗星を観測することを表明していた。その後1981年にIACG(lnter-Agency Consultative Group)が発足し, 以後7年間ハレー彗星観測の為の大国際協力計画が続いたのである。この頃は我試験探査機は他のどの探査機よりもハレー彗星から離れた軌道を通る計画であったが, 我々は探査機及び地上からの観測を含めてその観測結果の解析に必要な太陽風のデータを出すという縁の下の力持ち的感覚に徹していたのである。当時彗星の影響がそのように遠くまで上流太陽風に及ぼうとは殆どの人が考えていなかったであろう。しかし後に述べるように, ハレー彗星から噴出したガスが太陽紫外線によって電離され, そのイオンが太陽風に混合して(イオンピックアップ)種々の新しい現象を生み出す事が発見されたのである。太陽風の観測を行うために, プラズマ波動観測装置(PWP), 太陽風プラズマ密度・バルク速度観測装置(SOW)及び惑星間磁場観測装置(IMF)が搭載されることとなった。
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